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みやづ歴史紀行(173回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0031576 更新日:2026年10月20日更新
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笠井岩蔵(かさいいわぞう)の山林保護

笠井岩蔵の事績を伝える「造林謝恩碑」

 山林は、古くから人々の暮らしを支える貴重な資源でした。山から切り出された木材は建築材や燃料などに利用され、江戸時代には宮津藩でも「山方(やまかた)」を置いて山林の管理にあたりました。また、木を伐採した際には代わりとなる苗木を植えるよう定めるなど、山林を維持するための取り組みも行われていました。しかし、明治時代に入り、宮津藩による統治が終わり、山林をめぐる管理体制が変化する中で、樹木の濫伐(らんばつ)が進みました。
 こうした状況の中、山林保護に取り組んだ一人が、須津の笠井岩蔵です。岩蔵は文久二年(一八六二)、笠井佐助(さすけ)の子として生まれました。明治三十年(一八九七)、山林の保護を提唱し、山林の松樹の伐採禁止を訴えました。当時、山林は村内の集落でそれぞれ管理されていたため、岩蔵は各地を回って山林保護の必要性を説き、住民の理解をめました。その結果、山番を置いて無断伐採を取り締まるなど、山林を守る取り組みが進められました。
 岩蔵の山林保護の功績をたたえ、大正八年(一九一九)四月には「造林謝恩碑(ぞうりんしゃおんひ)」が建立されました。岩蔵はその年の十一月十四日に世を去りました。
 こうした岩蔵の取り組みは、その後の山林管理にも受け継がれていきました。大正八年には、集落で管理する山林の松樹について寸法や本数の調査が行われ、須津全体で一万五十八本が確認されました。さらに、集落で管理していた山林を村全体で管理しようとする動きも進みました。大正十一年四月には、吉津村集落で管理する山林の整理案の作成を与謝郡長に委託し、同年八月二十八日、与謝郡は整理区分案を作成させました。これをもとに村内で協議が重ねられ、大正十五年六月には吉津村全体の公有林野(こうゆうりんや)が成立しました。

(宮津市教育委員会)

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