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みやづ歴史紀行(172回)
河島徳四郎の桑園(そうえん) 改良
養蚕(ようさん)は古くから農家の貴重な収入源のひとつでした。蚕(かいこ)が作る繭(まゆ)は生糸に加工され、丹後地域を代表する産品である縮ちりめん緬の原料となりました。明治時代に入ると、宮津藩の旧藩士たちが養蚕や製糸業の振興に力を入れました。こうした取り組みを受けて、明治十二年(一八七九)には京都府が宮津町に養蚕伝習所を設置するなど、養蚕は近代宮津の経済を支える存在となりました。
こうした中、須津の河島徳四郎(かわしまとくしろう)は、蚕の飼料となる桑(くわ)の栽培に着目し、明治二十四年頃から桑園の改良を提唱しました。当時、桑は屋敷周囲や畑の空いた場所などに植えられ、十分な施肥も行わない栽培がほとんどでした。そこで徳四郎は、自ら所有する山林を開墾して桑園を開き、栽培方法を研究しました。その結果、桑の収穫量が増え、品質も向上しました。この成果を受け、吉津村の人々も徳四郎にならって桑の栽培に取り組むようになりました。
徳四郎のこうした事績を今に伝えるのが、須津に残る「山桑率先碑(やまぐわそっせんひ)」です。石碑には、桑園の改良を提唱し、自らその実践に取り組んだ徳四郎の事績が記されています。また、石碑を囲む玉垣には、竹野郡農会や出石郡農会など、吉津村以外の地域の団体名も刻まれています。
養蚕技術の向上が図られる中で、蚕の飼料となる桑の栽培に目を向け、自らその改良を実践した徳四郎。その成果は吉津村の人々にも受け継がれ、桑栽培の広がりにつながっていきました。大正十五年(一九二六)には、京都府が桑栽培の技術指導を目的として吉津村に指定桑園を設置しており、大正期にも吉津村で桑栽培が行われていたことが分かります。
(宮津市教育委員会)







