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みやづ歴史紀行(170回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0030509 更新日:2026年7月21日更新
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笠井浅七(かさいあさしち)と江戸時代の土地開発

石碑が中央に写っている

 江戸時代の宮津では、人口の増加に伴 って埋め立てによる居住地の拡張や新田 開発が盛んに行われました。須津村出身 の笠井浅七も、こうした土地開発に尽力 した人物の一人です。
 浅七は寛保三年(一七四三)、須津村の才三郎の次男として生まれました。若い頃には、野田川から須津浜へ通じる水路を掘削し、その土砂で海岸を埋め立てて二町歩(二ヘクタール)余りの新田を開発しました。この工事は丘陵を貫くト ンネルを掘削する大規模なもので、私財を投じて実施したと伝えられています。 このとき造られた水路は「浅七水(あさしちみず)」と呼ばれ、水路の一部が残されています。
 また、晩年には宮津藩の土木事業にも 携わり、須津峠や普甲峠などの整備に関 わったと伝えられています。なかでも文 化十四年(一八一七)からは、頭取と して大手川河口に堆積した土砂を利用した宮津新浜の埋め立て工事を指揮しまし た。『宮津事績記(みやづじせきき)』によれば、この工事には町中の男子が毎日弁当を持参して参 加し、各町の町名主や組頭も陣じんがさ 笠を着け て作業を指揮したと記されています。その様子から、工事が城下町を挙げての一大事業であったことがうかがえます。こうして魚屋町や河原町の北側に造成され た埋立地は「魚屋町新道」「西新道」と呼 ばれ、後に「東新浜」と呼ばれ、宮津を代表する花街の一つとして発展しました。
  天保二年(一八三一)、浅七は八十八歳 でその生涯を閉じました。明治四十三年 (一九一〇)には、与謝郡長・田邊信成(たなべのぶなり )によって「浅七水」のほとりにその功績 を顕彰する頌功碑が建立されました。浅七が地域の発展のために尽くした功績は、 今もなお語り継がれています。
(宮津市教育委員会) 

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