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みやづ歴史紀行(167回)
須津城跡と城主伝承
須津城跡の縄張り図
宮津市域には、中世に築かれた山城跡が各地に残されており、須津城跡もその一つです。須津集落の南東側には宮川が流れ、その流れに沿って東禅寺山(とうぜんじやま)と鯰ヶ岳(なまずがたけ)に挟まれた谷が奥へと続いています。須津城跡は、この谷の入口にあたる鯰ヶ岳の標高約八十メートルの尾根上に位置し、谷の出入口を押さえる要衝に築かれたものと考えられます。
城の構造は、主郭(しゅかく)を中心として尾根に沿ってU字状に広がるもので、北および北東へ延びる尾根上に曲輪 (くるわ)が連続して配置されています。主郭は台形状を呈(あらわ)し、その周囲には切岸(きりぎし)が明瞭に残っています。さらに主郭直下の北東側の曲輪には、堀切を食い違いに配置した虎口 (こぐち)が設けられており、敵の直線的な侵入を防ぐ工夫が見られます。また、北側の尾根先端にも堀切が築かれ、城の範囲が区画されています。加えて主郭の西側には櫓台(やぐらだい)状の土壇と深い堀切が残っています。土塁の発達は顕著ではありませんが、堀切を効果的に用いた防御構造にこの城の特色がうかがえます。
城主については、江戸時代の『丹後旧事記』に江木豊後守(えぎぶんごのかみ)の名が見え、一色氏に仕えた人物と伝えられています。また、『一色軍記』には、かつてこの地に田辺小太夫季武(たなべこだゆうすえたけ)が居住していたと記されています。季武は、田辺の円隆寺(舞鶴市引土)の再興に関与したとも伝えられていますが、詳しいことは明らかではありません。このように複数の人物との関わりが伝えられている点も、本城跡の特徴の一つです。
現在も曲輪や堀切などの遺構が良好に残っており、周辺には「館」といった地名も伝わっています。これらは、防御のための山城と平時の居館が一体となった中世の姿を示すものであり、当時の様子をよく今に伝えています。
(宮津市教育委員会)







