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みやづ歴史紀行(165回)
吉津地区の変遷
吉津地区は天橋立の南岸に位置し、根木出山(ねぎでやま)を境に須津と文珠の二つの集落に分かれます。須津集落は根木出山の西側に位置し、北側が海に面し、三方を山地に囲まれた場所にあります。集落の北西部を流れる野田川を境界に岩滝と接し、河口部の倉梯(くらはし)山からは、野田川河口や岩滝、須津沿岸一帯を見渡すことができます。海岸沿いの道が整備される以前は、宮津地区の杉末から須津峠を越えて須津集落へと至りました。また、西は須津湾に沿って北に進み、倉梯山の南を通り、野田川に至る道が用いられました。
古代や中世の様子については詳(つまび)らかでない点が多いですが、須津集落は古くから野田川河口の要所として認識されており、古墳時代前期には、野田川の河口を望むように古墳が展開しました。特に後期古墳が集中しており、霧ヶ鼻(きりがはな)古墳群や倉梯山1号墳では横穴式石室が確認されています。中世には倉梯山城跡に畝状竪堀(うねじょうたてぼり)が見られ、野田川の河口を抑える軍事的な拠点として注目されます。
慶長七年(一六〇二)の京極氏入国時に作成された『慶長検地郷村帳』には、須津村の名前が記され、八一六石七斗四升の石高が記録されています。慶安三年(一六五〇)には、集落の寺院である江西寺(こうせいじ)が、倉梯山の東側の枯木浦(かれきのうら)から集落を見渡す現在地に移転したと伝えられています。江西寺はかつて「江栖庵(こうせいあん)」と称していましたが、新たに移転した地の風光明媚な景観を中国の江西地方になぞらえ、江西寺と改名されたと伝えられています。
須津村は、明治八年(一八七五)に惣村から独立した文珠村と合併し、明治二十二年に吉津村が成立しました。戦後、昭和二十九年(一九五四)に合併して宮津市となり、現在に至ります。
(宮津市教育委員会)







