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みやづ歴史紀行(152回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0024953 更新日:2025年1月20日更新
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畑集落の和紙づくり

  畑集落では、和紙づくりが地域の産業として盛んに行われていました。
 和紙づくりは冬場に行われ、原料となるカゴ(楮(こうぞ))を蒸して皮を剥き、洗浄や乾燥などの工程を経て、細かい繊維に分解します。その後、漉槽(すきぶね)と呼ばれる水槽に水を張り、カゴの繊維、トロロアオイの根から作ったシャナ(糊)、水をよくかき混ぜ、簀桁(す げた)と呼ばれる木枠を用いて和紙を丁寧に漉き上げます。漉き上げた和紙は、乾燥後、商品の規格に合わせて裁断・梱包されました。
 大正十一年(一九二二)に畑製紙組合が結成され、畑集落の和紙を丹後一円へ出荷しました。昭和三年(一九二八)の「手漉製紙ニ関スル調査」によると、世屋村では二八戸、六十四人が和紙づくりに従事し、障子紙や縮緬(ちりめん)帯紙などを生産しました。これらの生産額は六九一四円に及び、橋北方面や宮津町のほか、加佐・与謝・中・竹野各郡の産業組合や、峰山丹後縮緬組合などに出荷されました。
 第二次世界大戦後、畑集落の和紙づくりは、原料不足などにより存続の危機に陥ります。この状況を打開するべく、昭和二十四年に畑製紙農業組合が設立されました。設立許可申請書には、製紙製造資材等の共同購入、機械を導入した共同作業施設の整備・利用、和紙原料の村内供給などが実施事業として記載され、これまで副業として個々に営まれていた和紙づくりを集落の共同産業とする動きが窺えます。また、図書館の設置、読書会や映画会などの文化活動、農繁期の託児所の設置などの扶助活動も事業内容に掲げられ、産業振興のみに留まらず、集落の中核組織としての役割も担っていたと考えられます。
 こうした作業の共同化や機械化の導入などを通じて、価格の安定や品質の維持を図りながら和紙づくりは続けられました。しかし、安価な洋紙の普及と共に、全国的に和紙製造が下火になり、昭和四十四年に畑製紙農業協同組合も解散しました。
 現在は、京都府立丹後郷土資料館を拠点に活動する紙漉き同好会により伝統的な和紙づくりの技術が継承されています。
(宮津市教育委員会)
歴史紀行​紙漉きの様子(京都府立丹後郷土資料館蔵)

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