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みやづ歴史紀行(150回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0024391 更新日:2024年11月20日更新
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江戸時代の世屋と生業

 江戸時代に入ると、世屋地区の各集落が成立していきます。慶長七年(一六〇二) の京極氏入国時の郷村帳(ごうそんちょう)には、上世野村、畑村の名前が見られ、駒倉、木子、下世屋、東野、 松尾の五集落の名前も見られますが、当時は上世野村に含まれていました。延宝三年(一六七五)の永井氏入国時より個別の村として記載されるようになり、各集落が村として自立していく様子が窺(うかが)い知れます。
​ 世屋地区は、現在でも市内有数の豪雪地帯ですが、江戸時代の『丹哥府志(たんかふし)』にも雪深さが特筆されており、毎年八月頃より降雪が始まり、五月頃まで続いたことが記されています。特に一月頃になると積雪の高さは二丈から三丈(約6mから7m)にも及んだことが記されています。
 世屋の各集落は、このような厳しい気候条件に加えて、山間部に位置することから田地に用いる土地も限られていました。しかし、豊かな山林資源に恵まれ、世屋で生産された薪や炭は、世屋川を通じて日置浜村に集積され、宮津城下町へと運ばれました。また、畑を開き黍(きび)・豆の栽培を行い生業とし、木子集落では、焼畑により赤小豆や栗が栽培されました。また、農閑期の生業として、上世屋・下世屋集落では藤織りが、畑集落では、和紙の生産が行われました。
​ 厳しい地理的条件にありながらも、江戸時代の世屋地区では、豊かな山林資源や、各集落で誕生した新たな生業により人々の生活が営まれました。雪深い暮らしの中で生まれた生業は、近代以降も集落の人々に受け継がれていきます
(宮津市教育委員会)

冬の上世屋集落

(冬の上世屋集落)

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