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みやづ歴史紀行(149回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0023971 更新日:2024年10月18日更新
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世屋の山城と城主

 宮津市の各地には、戦国時代に丹後国守護・一色氏の旗下(きか)で活躍した諸将の山城跡が数多く残されています。
 世屋地区にも上世屋城、松尾城、下世屋城の三つの山城跡があります。いずれの山城も集落近隣の丘陵上に位置し、平坦地や、堀切、土塁などの防御施設が確認されています。上世屋城をみると、集落入口を押さえる丘陵に三カ所の遺構が現存しており、地元には「本丸」や「馬場」など城に関連した地名が伝わります。江戸時代に編 纂( へ んさ ん)された『宮津旧事記』などの地誌類には、上世屋城の上野甚太夫(うえのじんだゆう)、松尾城の坂野四郎左衛門(さ かのしろうざ​えもん)、下世屋城の前野半助(ま えのはんすけ)といった城主の名前が見られます。また、同じく江戸時代に成立したと見られる軍記物『一色軍記』にも同様の名前が見られ、一色氏の本拠地である弓木城(与謝野町)に集った諸将の一員として登場します。
 さらに、野間村野中(京丹後市弥栄町)の伝承には、野間城跡は野尻隠岐守(おきのかみ)が城主であった以前は、上野殿と呼ばれる人物の居城であったとあり、上世屋城主・上野甚太夫と同族とも伝えられています。少なくとも鎌倉時代の初めには、野間と世屋は一体とも扱われるような関係であったことを踏まえると、この時代の野間から世屋にかけての支配を考える上で興味深い存在です。
​ 中世山城跡や城主の伝承は、戦乱の丹後を知る上での貴重な手掛かりです。世屋に残る三つの山城跡と三人の城主もまた、戦国時代と現在を結びつける大切な存在といえるでしょう。
(宮津市教育委員会)

歴史紀行149

上世屋城跡の縄張図(『京都府中世城館跡調査報告書丹後編』京都府教育委員会、2012 年より)

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