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みやづ歴史紀行(148回)
片岡与五良とその一族
丹後国御檀家帳(稲葉家写本)
室町時代になると丹後国は、一色氏が守護として治めるようになります。京都を拠点とする一色氏に代わり、実際の現地支配は、その配下が担いましたが、残された資料が少なく人名や具体的な活動などは明らかではありません。その中で、片岡与五良(かたおかよごろう)らの一族は世屋での活躍が知られる貴重な存在です。
片岡与五良は、十五世紀中頃の『丹後国諸庄郷保田数帳(たんごのくにしょしょうごうほでんすうちょう)』に「永久保 十三町七段百五十歩 片岡与五良」と永久保を治める人物としてその名が見られます。室町将軍の警護や雑用を担う走衆(はしりしゅう)の一員として京都で活動しており、延徳二(一四九〇) 年一月二十三日に室町幕府の八代将軍・足利義政の葬儀や、同年二月五日の五十七日法要に参列しています(『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』)。
しかし、義政の死と前後して、京都を拠点に活動していた守護らが自分の領国に戻り、地元の支配を強化していくようになります。片岡氏も活動の場を地元に移したらしく、十六世紀前半の伊勢神宮外宮の参詣世話人である御師の檀家手控え帳『丹後国御檀家帳』には、「大せやひおきの近所、片岡七郎左衛門殿こうおや」とあり、同族と見られる人物が講親(伊勢神宮への参詣・寄進をする信者の団体である講の世話役)として名前が見られます。
その後の片岡氏の動向は明らかではありませんが、江戸時代に編纂(へんさん)された『丹後旧事記』には、戦国時代の上世屋城主・上野甚太夫(うえのじんだゆう)と共に片岡宗十郎なる人物の名前が伝わるなど、依然として地域における影響力を持っていたと見られます。片岡氏について、地域に残る史料や伝承は多くはありませんが、京都での活躍も含めて中世後期における地域勢力の活動を知る上で興味深い存在です。
(宮津市教育委員会)