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みやづ歴史紀行(145回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0022589 更新日:2024年6月20日更新
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世屋地区の変遷

世屋地区の変遷 

 世屋地区は、宮津市の北西部に位置します。世屋川上流域には、地すべり地形を利用して駒倉、木子、上世屋集落が、世屋川中流域には、松尾、下世屋集落が、畑川流域に畑村集落が立地します。山間部には美しいブナ林が広がり、上世屋集落と木子集落の間に位置する大フケ湿原には貴重な湿原性植物や稀少植物が分布します。
 古代には日置郷に属していたと考えられており、建久三(一一九二)年の丹波某の願文に「右、野間世・野・者、境内勝地也」と初めて「世野」の地名が見られます。山間部を通じて隣接する野間(京丹後市)とは、その後の文書でも度々、共に登場しており、中世における地域間の関係性が注目されます。貞永元(一二三二)年の領地争いに際しては、共に永久保に属していたことが記されています。室町時代には、 永久保を治めた片岡氏の同族の支配下にあったと考えられており、十六世紀前半の『 丹後国御檀家帳(たんごのくにおだんかちょう)』には「大せや 片岡七郎右衛門」との記述が見られます。また、江戸時代に編纂された地誌類には、戦国時代の一色氏随将として「上瀬屋村」の「片岡宗十郎」の名が記されています。
 江戸時代に入り、慶長七(一六〇二) 年の京極氏の入国時には、上世野村、 畑村の名前が見られるようになり、その後、永井氏入国に際して作成された​『延宝三年郷村帳』より、駒倉村、木子村、上世屋村、下世屋村、東野村、 松尾村、畑村と現在の地名が確認されるようになります。江戸時代以来、豊かな山林資源を活かした生業が営まれ、世屋川を通じて運ばれた炭や薪が日置浜村に集積され、船で宮津城下町へと運ばれました。また、上世屋では藤織りが、畑では紙漉(かみす き)が冬場の副業として貴重な現金収入となりました。
 明治二十二(一八八九)年の町村制の施行により、各村が合併して世屋村となりました。戦後、昭和二十九(一九五四)年に合併し宮津市となり、現在に至ります。

(宮津市教育委員会)

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