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みやづ歴史紀行(143回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0021471 更新日:2024年3月19日更新
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千賀大鑑と橋北海岸道路の整備

歴史紀行3月号

 明治時代に入ると近代化政策の一環として全国的に交通網の整備が行われるようになります。宮津市域は、海上交通の充実に対して陸上交通の整備は十分ではなく、道路として整備されていたのは、上宮津地区の普甲峠や、栗田地区から由良地区へ抜ける七曲八峠(ななまがりやとうげ)などの主要な街道に限られていました(『与謝郡誌』)。明治時代から大正時代にかけて府道の整備など徐々に陸上交通路の整備が図られていきますが、養老地区においては明治初期の段階で地域住民の尽力による道路整備が行われました。
 明治六(一八七三)年三月に顕孝寺(けんこうじ)住職の千賀大鑑(せんがだいかん)をとして大島村、岩ケ鼻村、長江村、伊根村から豊岡県へ「道路修繕及び橋梁架設願」が提出されました。これは、文珠村から天橋立に橋梁で渡り、府中から伊根立石へ至る道路整備を求めたものです。しかし、この請願に対して豊岡県からの許可は得られず、明治九年に京都府へと管轄が変わった後も依然として許可が得られない状況が続きました。
​ こうした状況の中、明治十二年に大鑑らは、官許を待たず地方有志者の醵金(きょきん)による事業の実施に動きました。旧宮津藩主の本荘宗武(ほんじょうむねたけ)の支援を得て、道路修繕と橋梁架設に関する周旋芳名簿(しゅうせんほうめいぼ)が作成されました。名簿には、総轄である宗武を筆頭に旧宮津藩士や橋北各村の有力者が名前を連ねており、大鑑らの事業に多くの人々が協力した様子が窺(うかが)い知れます。こうした支援を得て、明治十二年に工事が開始され、明治十六年に天橋立から大島を結ぶ海岸道路が開通しました。
​ 大鑑ら地域の人々の尽力により完成したこの道路は、明治十九年には府道に編入され橋北地域の陸上交通の基盤となりました。そして、大正時代には、明治の工事では実現しなかった天橋立の橋梁架設と大島と伊根を結ぶ道路も完成しました。これにより天橋立から橋北地域を縦貫する道路が実現を見ることになりました。

(宮津市教育委員会)

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