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みやづ歴史紀行(142回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0021448 更新日:2024年2月20日更新
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岩ケ鼻集落の日吉神社

岩ケ鼻日吉神社

 岩ヶ鼻集落は、長江集落の北に位置し、犀川河口部の左岸に位置します。集落の北西方向には、犀川に沿う谷筋の道が通り、日ケ谷、筒川への主要道として古くより人やモノの往来が盛んでした。
​ 集落に所在する日吉神社は、『与謝郡誌』によると、元は日ケ谷に鎮座していましたが、天文十八年(一五四九)に外垣の木積明神(こづみみょうじん)を合祀して「丹後国伊禰庄一宮山王社」(たんごのくにいねのしょういちのみやさんのうしゃ)として現在値の遷座(せんざ)したと記されています。江戸時代には、八月十五日に例祭が行われ、岩ケ鼻のみならず、当時は日ケ谷、外垣、大島に加え、現在の伊根町にあたる日出・高梨・平田・大原の伊禰庄八ヵ村が氏子として参詣し、各々の芸能を奉納しました。また、神社には、天文十八年から昭和十三年(一九三八 )にかけての建物の建立や修理の経緯を示す棟札(宮津市指定文化財)が残されており、ここから建物の歴史のみならず、神社の祭祀や修復に関わった地域の有力者の存在を知ることができます。
​ 日吉神社の背後の山には岩ヶ鼻城跡があり、天正年間の城主である橋本豊後守(はしもとぶんごのかみ)は、『一色軍記』などには、一色氏の旗下で細川氏と戦いを繰り広げた家臣の一人として記されています。橋本豊後守の一族も地域の有力者として、日吉神社に深く関わっていたとみられ、天文十八年の遷座建立時の奉納棟札には橋本胤清(はしもとたねきよ)の名が見られ、天正六年(一五八七)の再建時には橋本伊豆守(はしもといずのかみ)の名が見られます。細川氏との戦いで橋本豊後守は命を落としますが、『丹哥府志』(たんかふし)などには、その孫が宮津藩主の永井氏に仕えていたことが記されています。
​ こうした地域の人々に支えられながら現在に至るまで日吉神社は岩ヶ鼻の氏神として崇敬を集めています。現在も十月に例祭が行われており、太刀振りが奉納芸能として伝承されています。祭りの賑わいからは、今日に至るまでの地域の歴史が強く感じられます。

(宮津市教育委員会)

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