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みやづ歴史紀行(141回)
長江集落と八幡神社(はちまんじんじゃ)
長江集落は、千石山(せんごくやま)の東麓に位置し、 東は若狭湾に面します。他の養老地区の集落と同様に、江戸時代には漁業が生業(なりわい)として行われていましたが、一方で農業も盛んであったことが知られており、集落裏手にそびえる千石山を耕地として利用して黍や豆が栽培されていました。『 丹哥府志(たんかふし)』には、その作高は年間千石におよび、「千石」山の名前の由来となったとする話が記されており、往時の農業の隆盛が窺い知れます。
集落の北端には八幡神社が鎮座し、長江集落の産土神(うぶすながみ)とて崇敬を集めてきました。正徳二(一七一二)年に社殿が創建されたときの棟札には、大工の冨田助次や、地元の関係者の名前のほか、長江村のみならず、他所の村の人々の寄進を受けて造営されたことが記されています。寄進は、養老地区の村以外にも、伊根の亀島村、 新井(にい)村、大原村や、日置上村や府中村など広範囲の村々の人間により行われており、造営時の他集落との関係性が垣間見えます。現在の本殿は、万延元(一八六〇) 年の再建であり、本殿正面向拝の龍虎をはじめ、多数の装飾彫刻が用いられています。これらの彫刻は、丹波福知山の彫刻師である安野義一によるものであり、里波見に所在する高峰神社の彫刻も義一の手によるものです。
また、長江集落の高台に所在する曹洞宗寺院の宝泉寺(ほうせんじ)は、本尊である聖観音像(しょうかんのうぞう)のほか、八幡神が姿を変えた本地仏である阿弥陀如来像が安置されていたことが伝えられており、かつては八幡神社の奥の院であった可能性が指摘されています(『養老村誌』)。沿革については不明な点が多いものの、 集落の歴史を考える上では重要な寺院です。
長い年月の中で、集落の歴史を伝える資料や、生活を伝える行事が失われていく中、八幡神社は、江戸時代からの長江集落の歴史を伝える貴重な建物です。海と山の狭間に広がる集落の姿と共に、往時の姿を今に伝えています。
(宮津市教育委員会)