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みやづ歴史紀行(140回)
波見川流域の社寺建築
宮津市域北東部の丹後山地には、標高六〇〇mを越える汐しおぎりやま霧山や角つのつきやま突山などの高峰が連なります。奥波見、中波見、里波見の集落は、角突山南東麓に源を発し、宮津湾に向かって流れる波見川に沿って所在します。
鎌倉時代には、「 波見保(はみのほ)」として史料上にその名前が登場し、 弘安元(一二七八)年には地頭が置かれていました(『鎌倉遺文』)。また、十五世紀中頃に成立した『 丹後国惣田数帳目録(たんごくにそうでんすうちょうもくろく)』には、「一 波見保 十一町三二百四十八歩成相寺」との記載があり、成相寺領であったことが窺(うかが)い知れます。十六世紀頃に成立したとみられる『丹後国御檀家帳』には「さとはみ」「はみ(波見)のたん(段)と申むら」「はみ( 波見)の六良かき」と名前が記されています。
また、集落には、宮津で活躍した大工として有名な冨田大工、今井大工の合作となる社寺建築が残されています。奥波見の白山神社は、享保十四(一七二九)年に現在の本殿が造営されましたが、棟札には今井平助、今井八右衛門をはじめとする今井姓の大工のほか、冨田伝右衛門の名前が見られます。また、同じく奥波見に所在する日蓮宗寺院である妙典寺の本堂も寛文十一(一六七一)年の再建に際して、 今井平助を棟梁に助工として複数の冨田姓・今井姓の大工の名があり、造営に従事していた様子が見られます。宮津市域においては、宮津城下町周辺部以外において棟札等の資料で確認できる冨田、今井の両大工の合作による事績は極めて少なく、これらは市域全体においても大変興味深い建造物です。また、里波見集落の産土神である高峰神社についても延宝二(一六七四)年に冨田盛平が大工として本殿を造営した記録が残されており、冨田大工の早期の活動を示す資料として評価されています。
かつて宮津では、多くの大工が鎬(しのぎ)を削りながら数々の社寺を作り上げてきました。特に冨田大工や今井大工の手による優れた社寺は、宮津を代表する建築として数多く守り伝えられています。波見川流域の集落に残されるこうした社寺もまた、宮津を代表する職人たちの技術や感性を今日の私たちが知るうえで貴重な建築です。
(宮津市教育委員会)