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みやづ歴史紀行(138回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0020106 更新日:2023年10月20日更新
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大島の網漁

城山と大島集落

丹後半島や若狭湾にかけての沿岸集落では、豊富な水産資源を背景に漁業が発達しました。室町時代末期から江戸時代にかけては、漁業技術の進展も著しく、特に網漁では、網をめぐらせ
て回遊魚を捕獲する引網漁や、海中に垣根のように立てた網で魚群を誘導して箕状の網に追い込んで捕獲する越中網など様々な漁法が開発されました。
 江戸時代の養老地区でも長江村や里波見村で網漁が行われていましたが、 特に大島村は、漁業の先進地として発展を遂げた平田村・亀島村・日出村の伊根浦三カ村の影響もあり、古くから網漁が発達しました。集落北部の城山近辺の海は好漁場であり、大島集落に伝わる古文書(「大島区有文書」)からは城山周辺から青島(伊根町)周辺に網場を構えていた様子が窺い知れます。
 しかし、時には網場をめぐり伊根浦の村との争いになることもありました。文政九(一八二六)年には、日出村との間で城山周辺の両村境にある網場をめぐる相論が発生しました。大島集落に伝わる古文書や絵図からは、双方の主張や、久美浜代官所がそれらを吟味したうえで、両村に妥協点を打診し、最終的に和談に至るまでの経緯が記されており、当時の漁業権益をめぐる相論の様子が窺い知ることができます。
  明治以降も漁業はますます隆盛し、明治三十八年(一九〇五)には養老村のうち大島集落では、人口六〇〇人のうち三割にあたる一八〇人が漁業を生業とし、集落全体で一一六艘の漁船を有していました(『養老村誌』)。また、 大正年間には、富山から新たな落とし網漁法である瓢網を導入したほか、動力式の漁船が導入されるようになりました(『与謝郡誌』)。
 現在でも大島集落は、宮津を代表する漁業地域のひとつであり、カタクチイワシをはじめとした魚が水揚げされています。城山の眼下には、昔ながらの漁村景観が広がり、地域に伝わる歴史資料に伝えられる海と共に歩んだ歴史が受け継がれています。

(宮津市教育委員会)

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