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みやづ歴史紀行(137回)
大島城と千賀氏
養老地区には、中世の山城跡が7件確認されています(『京都府遺跡地図』)。城主の名前や活動が窺い知れる史料は多くありませんが、地誌や、地域の伝承などから垣間見ることができます。また、江戸時代の軍記物語などからは、一色氏の家臣として戦った城主達の姿が描かれています。
天正年間に大島城を居城にしたと伝えられる千賀山城守(せんがやましろのかみ)もそのうちの一人です。千賀山城守は、『丹哥府志』 の記述には、細川氏との戦いにおいて、田原城の小出左京進(こいでさきょうのじょう)らと共に細川勢を迎え撃ち、岩壁を馬で下り細川方の本陣に襲撃をかけるなど奮戦の末に戦死を遂げたと記されています。また、細川方の史料にも千賀兵太夫(せんがひょうだゆう)の名前が見られます(『細川家記』)。千賀山城守の一族である千賀氏が大島を拠点にした時期については、明らかではありませんが、『丹後国御檀家帳(たんごのくにおだんかちょう)』には「宮津いち場」に「小倉殿おとな」である「千賀孫左衛門尉殿(せんがまござえもんのじょうどの)」の名前が記されています。千賀山城守と同族かは定かではありませんが、千賀氏の動向を推察するうえで興味深い史料です。また、大島城跡の南西には千賀氏の菩提寺と伝える安養寺跡(あんようじ)があり、城山の麓に所在する顕孝寺(けんこうじ)に残る「安養寺殿千厳良勝大禅定門」の位牌は千賀氏のものと伝えられています。
千賀山城守が居城とした大島城は、 現在の宮津市と伊根町の境界の伊根湾に半島状に出た山に位置しており、現在でも「城山(しろやま)」の名で呼ばれています。 西南の入口の他、三方を岩壁に囲まれた堅固な城であったと伝えられています。現在も曲輪(平坦面)や、防御施設である堀切(ほりきり)の跡が残されており、かつての城の姿が窺い知れます。
現在、大島城をはじめとする中世の山城の多くは、木々に覆われて一見するとその姿を窺い知ることができません。しかし、地域に伝わる伝承や限られた史料、そして木々の下に眠る城の痕跡が在りし日の城主と城の姿を私たちに伝えてくれます。