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みやづ歴史紀行(136回) 

印刷用ページを表示する 記事ID:0018972 更新日:2023年8月18日更新
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養老地区の変遷

大島集落
​             大島集落 

里波見集落
             ​里波見集落


 養老地区は、宮津市の北西部に位置し、北側を伊根町と接し、東側は若狭湾に面しています。波見岬と対岸の黒崎(栗田地区)を見通した線が、若狭湾と宮津湾を分ける境界とされており、養老は宮津湾の入口をおさえる場所に当たります。海岸部には砂浜が発達し大島、岩ヶ鼻、長江集落が立地します。また、日出(ひで)(伊根町)と厚垣(日ヶ谷地区)の中間には田原集落が、犀川の中流域には外垣集落が波見川流域の谷に沿って奥波見、中波見、里波見集落が立地します。
 古代・中世には日置郷に属していたと考えられています。室町時代に成立したとみられる「丹後国惣田数帳 (たんごのくにそうでんすうちょう)」には波見保の地名が登場します。江戸時代の「京極丹後守拝領郷村帳(きょうごくたんごのかみはいりょうごうそんちょう」には田原村、大島村、外垣村、岩ヶ鼻村、永江(長江)村、里波見村、奥波見村の名前がみられます。このうち大島村、奥波見村は、享保二(一七一七)年、宮津藩主・青山幸秀(あおやま ゆきひで)の入部の際に代官所領となりましたが、宝暦八(一七五八)年に青山氏に代わり宮津藩主となった本庄資昌(ほんじょう すけまさ)の入部に際し、奥波見村のうち波見川の下流の地域(中波見)は、 宮津藩領へと戻りました。
 明治時代には、奥波見村のうち旧宮津藩領分が中波見村に分村しました。そして、明治二十二(一八八九)年に町村制の施行により、八ケ村が合併して養老村となりました。戦後、昭和二十九(一九五四)年に合併し宮津市となり、現在に至ります。

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