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みやづ歴史紀行(第134回)
日ケ谷の養蚕
大西集落の太刀振り(個人 蔵)
日ケ谷では、祭礼芸能として太刀振りや神楽などが行われていました。古くは、現在、岩ケ鼻にある日吉神社の例祭で奉納されていたことに始まります。
日吉神社は、かつては日ケ谷立集落の森の上と呼ばれる地に鎮座していました。天文十八(一五四九)年に外垣村の木積み(こづみ)神社と合祀(ごうし)されて現在の地に移ったと伝えられています。合祀後は、伊根庄(いねのしょう)の神社の中で最も社格の高い一ノ宮として、日ケ谷村、外垣村、岩ケ鼻村、大島村、日出村、高梨村、平田村、大原村の現在の伊根町域を含む八か村で祀られ、旧暦八月十五日に行われていた例祭では、各村により祭礼芸能が奉納されました。日ケ谷村は、他村に先立ち境内へ入り、薮田が幟(のぼり)を立てて先頭に立ち、それに続いて立と大西が太刀振(たちふ)りを、落山が神楽(かぐら)をそれぞれ奉納しました(『養老村誌』)。
明治時代に入り、日吉神社への奉納が休止となった後も、地域の中で祭礼芸能は続けられ、毎年十月十五日には、 天長寺境内地で祀られていた山王権現へ花踊り、太刀振り、神楽、中踊りが奉納されました。また、祭りの時には、根から掘り起こされた竹竿に花飾りと共に猩々幟(しょうじょうし)が飾り付けられ、青年たちを中心に村中をひき回しました。
日ケ谷の祭礼芸能は、第二次世界大戦の中断を挟んで、戦後も継続しました。しかし、地域の人口減少に伴い、 祭礼芸能の担い手が減少し、現在、神楽や太刀振りは休止状態となっています。
こうした中でも、落山から教えをうけた神楽が近隣地域で行われているなど、日ケ谷の祭礼芸能の系譜は今でも引き継がれています。また、現在でも地域に残る古写真や、かつて祭りに参加した住民の記憶から往時の祭りの姿が窺い知れます。こうして伊根庄一ノ宮から始まる祭りの姿は、今なお受け継がれています。