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みやづ歴史紀行(第133回)

印刷用ページを表示する 記事ID:0018095 更新日:2023年5月19日更新
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日ケ谷の養蚕

大西集落に所在した蚕神 

    大西集落に所在した蚕神

 牛飼いと並び、日ケ谷で行われていた代表的な産業として養蚕(ようさん)があります。蚕(かいこ)が作る繭から得られる生糸は、丹後地域を代表する産業である縮緬(ちりめん)の原料であり、古くから農家の貴重な収入源のひとつでした。
 日ケ谷では、多くの農家で春と秋の年二回、蚕の飼育が行われており、大正末期頃には、生糸用の蚕(普通蚕)の飼育に加え、一部の農家ではその蚕を産む原蚕(げんさん)の飼育が行われるようになりました。かつては、卵を孵化させることから始めていましたが、昭和十(一九三五)年頃から日ケ谷養蚕組合の蚕集所で、孵化した毛蚕(けご)を専門員が取り分け、各自で持ち帰り飼育するようになりました。約ひと月をかけて蚕が繭をつくると、各家で取り分けられ、粒の揃った繭は、毛羽取器で表面についた余分な毛が取り除かれた後、製糸会社に出荷されました。
 養蚕は、餌となる桑の葉の確保が比較的容易であり、繭の収量が見込めるために多くの農家で行われました。しかし、飼育には、成長具合に合わせた細かな温湿度の管理が必要であり、一歩間違えると多くの蚕が病気となる可能性がありました。日ケ谷では養蚕の成功を願い、二月最初の午の日には、繭に見立てた団子が作られ神棚に供えられたほか、春の養蚕が始まる前の五月一日には、大西集落では集落の養蚕神社にお参りし、蚕の飼育の成功を祈願しました。
 養蚕は、第二次世界大戦後もしばらくは、日ケ谷の中心産業として続けられ、宮津市合併後に刊行された昭和三十一年版『丹後年鑑』にも記載されていました。しかし、地域の人口流出が進むなかで、養蚕農家も減少が進み、昭和五十三年三月二十日に最後に残った三戸の養蚕農家により養蚕組合の解散式が行われました。長年に渡り続けられた日ヶ谷の養蚕は、近代丹後の蚕糸業を陰ながら支え続けた存在であったといえるでしょう。

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