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みやづ歴史紀行(第132回)

印刷用ページを表示する 記事ID:0018094 更新日:2023年4月20日更新
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日ケ谷の牛飼い

立集落の牛飼い農家 (日ケ谷地区公民館 蔵) 

 立集落の牛飼い農家 (日ケ谷地区公民館 蔵)

 日ケ谷村で長らく盛んであった産業として牛飼いがあります。かつて牛は、農作業における労働力として暮らしに欠かすことのできない存在でした。農家の中には、牛飼いによる牛の繁殖販売を行い、収入を得る家もありました。
 日ケ谷村では、立集落をはじめ多くの農家で牛飼いが行われていました。大正九(一九二〇)年の調査では、牡牛(おうし)五十七頭、牝牛(めうし)五十九頭とほぼ同数であり、粘質田(ねんしつでん)の田を耕すためには力の強い牡牛が適していると考えられていました。しかし、昭和四(一九二九)年頃より牝牛でも十分に農耕用として使えることに加え、新たに産まれた仔牛が貴重な現金収入の手段となることが周知されるとともにほぼすべてが牝牛へ変わっていきました。
 牝牛の多くは、宮津町の馬場先(宮津市字馬場先)で年に数回開催される牛市(うしいち)や、博労(ばくろう)と呼ばれる仲介業者を通じて購入され、家の玄関口の土間に築かれたマヤと呼ばれる飼育場所で育てていました。三歳頃になり発情期が始まると、筒川村の京都府種畜場や滝根(伊根町)にあった与謝郡畜産組合種牛場まで徒歩で連れて行き、交配が行われました。これらの施設では、交配の他にも、牛の健康管理や、売買や出産の登録などが行われていました。産まれた仔牛の値段は、牝牛と牡牛で大きく異なり、牝牛は牡牛のおよそ三倍の売値が付きました。
 長らく、牛飼いによる収入は家計の大きな柱でしたが、昭和三十五(一九六〇)年頃から農作業に耕運機が導入され、機械化が進むようになります。それに伴い牛の役割は低下し、人々の生活の中から少しずつ姿を消していきました。

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