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みやづ歴史紀行(第130回)
成谷(なるだに)の炭焼き
⼭に築かれた炭竃
近代以降も⽇ケ⾕周辺の⼭々がもたらす豊かな資源は、⼈々の⽣活の糧となりました。成⾕集落で⾏われていた炭焼きは、代表的な⽣業のひとつとして知られています。
成⾕は、隣接する旧野間村(現在の京丹後市弥栄町)に属していましたが、昭和⼆⼗九(⼀九五四)年の宮津市成⽴に際して編⼊されました。以後、昭和四⼗四年に最後の住⺠が離村するまで⽇ケ⾕に属しました。
成⾕や周辺の集落では、炭を焼く炭竃(すみがま)を造り、⽩炭(しろずみ)や⿊炭(くろずみ)と炭質が異なる炭が⽣産されました。⽩炭は、炭竃で焼きあがった後に素灰(すばい)と呼ばれる消し粉をかけて製造されます。炭質が硬く着⽕しにくいものの、着⽕すれば安定した⽕⼒を⻑時間にわたって得られるのが特徴であり、備⻑炭がその代表として知られています。⼀⽅、⿊炭は炭質が柔らかく、着⽕が容易で早く⼤きな熱量を得られるため、家庭⽤の燃料として重宝されました。
炭竃は、集落から離れた場所に築かれ、窯の近くで採れるナラやシデ、ブナなどが炭の材料となりました。近くの材料が無くなると別の場所に新たな炭竃が造られ、またその近くの⽊々を材料に炭が焼かれました。焼き上げられた炭は、規定の⼨法に切りそろえられ、炭俵に⼊れられました。検査員により⼀級、⼆級、三級の等級がつけられた後、婦⼈会の⼥性により半⽇かけて岩ケ⿐の商店まで運ばれました。
⻑らく、家庭燃料の主役として⽋かせないものであった炭は、⼭間に⼤きな利益をもたらしました。しかし、昭和三⼗五年頃から家庭⽤燃料としてプロパンガスや灯油が普及しはじめ、徐々にそれらに代わられるようになっていきました。