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みやづ歴史紀行(第129回)
山と生きる暮らし
大西集落
近代以前の社会では、⼭がもたらす豊かな資源は、⼈々の⾐⾷住の広範にわたり⼤きな恩恵を与えました。江⼾時代の⽇ケ⾕村でも⼭々から採れる草⽊をはじめとする⼭林資源は、村の⽣活の糧となりました。各集落には、全体の共有財産として伐採が許可された⼊会地(いりあいち)である「野⼭」や、集落各々で組織された株により独占管理された「持林(もちばやし)」が設置されました。
しかし、豊かな⼭林資源は、時に利⽤や帰属をめぐり集落同⼠の対⽴の原因となりました。落⼭集落に伝わる⽂書には、⽂化四年(⼀⼋〇七)に巻之成(まきのなる)と呼ばれる地をめぐる集落同⼠の争いが記されています。この争いは、⽂化⼀〇年に決着がつくまで、村全体で⼗四貫⽂を越える費⽤を要する結果となり、村の⼤きな負担となりました。終結後には、各集落同⼠で取り決めがなされ、「境(の標識)を捨て置いたからこそ村内で争いが発⽣し、村内が不和になってしまった。今後はこれを捨てないようにする」と申し合わされました。
また、⽇ケ⾕村の集落のみならず宮津藩も、⽇ケ⾕に直轄林である「御林(おはやし)」を定めて、藩⽤の材⽊の確保と維持に努めました。藩では、郡奉⾏の下に⼭⽅役⼈(やまかたやくにん)を置き、⼀般百姓の伐採を禁じ、下草刈りや枝払いも許可を必要とするなど御林を管理しました。また、各集落が管理する持林や共同利⽤が認められた⼊会⼭(いりあいやま)についても、むやみな開発を禁じ、必要に応じて杉や松などの苗を植えるように推奨するなど⼭林資源の維持に努めました。