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みやづ歴史紀行(第128回)

印刷用ページを表示する 記事ID:0016853 更新日:2022年12月20日更新
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丹後松田氏について

 かつて天⻑寺の背後には、中世の⼭城である⽇ケ⾕城が存在していました。戦国時代は、松⽥⼭城守頼通(まつだやましろのかみよりみち)の居城であったと伝えられています。頼通は、⽇ケ⾕周辺に勢⼒を持ち、丹後国守護である⼀⾊⽒に仕えました。そして、織⽥信⻑の命を受けて丹後国へと攻め⼊った細川⽒との戦いに敗れ、命を落としたとされています。
 頼通の⼀族である丹後国を本拠地とした松⽥⽒は、鎌倉後期頃に⼤きく5つの流れに分かれ、各々異なる道を辿ります。守護⼀⾊⽒に仕えて、丹後あるいは京都で活躍した系統のほか、但⾺国守護である⼭名⽒に仕えた系統、鎌倉幕府や室町幕府に仕える官僚集団である奉⾏⼈を輩出した系統など多岐に及びます。「丹後国諸庄郷保惣⽥数帳(たんごこくしょしょうごうほそうでんすちょう)」には、⽇ケ⾕の松⽥⽒の祖とされる松⽥刑部左衛⾨(ぎょうぶざえもん)をはじめ、⼀族の所領が中郡、⽵野郡など広範に⾒られます。
 中世における松⽥⽒の丹後国内での活動については、不明な点が多いですが、岩ケ⿐⽇吉神社に伝わる天⽂(てんぶん)⼗⼋年(⼀五四九)の棟札(むなふだ)には、守護代である延永(のぶなが)⽒の代官として松⽥弾正左衛⾨尉致頼(だんじょうさえもんのじょうむねより)、造営担当者と⾒られる松⽥備中守頼忠(びっちゅうのかみよりただ)の名前が記されており、在地での活動の⼀端が窺(うかがい)知れます。
 また、⼦孫に伝わる「丹後松⽥⽒系図」からは、延永⽒や稲富(いなとみ)⽒などと婚姻関係にあったことや、⼀族から⽇置上の⾦剛⼼院の僧を輩出していることが記されています。
 松⽥⽒については、まだまだ不明な点は多いものの、近年では幕府奉⾏⼈として活躍した⼀族を中⼼に究が進められており、今後さらなる解明が期待されます。

◆参考⽂献
​ 榎原雅治「新出「丹後松⽥系図」および松⽥⽒の検討」
(『東京⼤学史料編纂所紀要』四、⼀九九三年)

歴史紀行

 ⽇ケ⾕城の縄張り図​
(『宮津市史(通史編上巻)』より引⽤)

 

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