ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

みやづ歴史紀行(第127回)

印刷用ページを表示する 記事ID:0016663 更新日:2022年11月18日更新
<外部リンク>

天長寺と圓教寺

 天長寺   圓教寺 

        天長寺経蔵                      圓教寺山門

 地久⼭天⻑寺(ちきゅうさんてんちょうじ)と⽇渓⼭圓教寺(にっけいさんえんきょうじ)は、⽇ケ⾕地区を代表する寺院であり、⼤⻄集落を南北に挟むように所在します。
 集落北部の天⻑寺は、かつて近隣に所在した威光寺(いこうじ)という名の寺院を前⾝とします。天⻑年間(⼋⼆四〜⼋三四)の再興の際に現在の寺名に改めたと伝わります。その後、寛永年間(⼀六⼆四年〜⼀六四四年)に智恩寺の⼼燈禅師(しんとうぜんじ)により中興されました。寺院に伝わる⼤般若経(だいはんにゃきょう)(市指定⽂化財)は、平安後期の書写経を中⼼に鎌倉・南北朝・室町・江⼾時代の補写経をまじえます。また、境内の⼦安地蔵像(市指定⽂化財)は、嘉永六年(⼀⼋五三)⼗⽉に中郡鱒留村(ますどめむら)(現京丹後市峰山町)の⽯⼯である初代松助により刻まれたものであり、天⻑寺⼋代⽬の⼤仲の発願により制作されました。
 南部の圓教寺は、⼤⻄集落の南に位置する⽇蓮宗の寺院です。『与謝郡誌』によると、開⼭の⽇乗(にちじょう)は、元は威光寺の僧でしたが、京洛五条橋上にて本国寺の⽇助(にちじょ)と法論して敗れた結果、⽇蓮宗に改めたと伝えられています。創建当初は、栗尾(くりお)にありましたが⽕災により全焼し、享保三年(⼀⼋四〇)に堂坂に再興された後に、天保⼗⼀年(⼀⼋四〇)に現在地へと移されました。寺院に伝わる唐様須弥壇(からようしゅみだん)には、明和七年(⼀七七〇)に圓教寺⼗六代⽬・⽇⾏の時に造られたことを⽰す墨書が裏⾯に残されています。
 地域の⼈々⼿によって守り伝えられてきた⼆つの寺院は、⽇ケ⾕地区の歴史を考えていく上でも重要な寺院です。

 

 

 

公式Facebookへのリンク<外部リンク>公式Twitterへのリンク<外部リンク>公式Instagramへのリンク<外部リンク>