本文
みやづ歴史紀行(第126回)
日ヶ谷地区の変遷
薮田地区
⽇ケ⾕地区は宮津市の北⻄部の犀川(さいかわ)上流域の⼭間部に位置し、北側を伊根町、⻄側を京丹後市と接します。尾根上には宮津市北部の⼭間部に特徴的な地滑り地形が発達しており、⽴、⼤⻄、藪⽥、落⼭、厚垣の集落が点在します。
関ケ原の戦いの後、丹後国を拝領した京極⽒により慶⻑七年(⼀六〇⼆)に作成された『京極丹後守拝領郷村帳』には、⽕ケ⾕村として地名が記されています。その後、永井⽒⼊国に際して作成された『延宝三年郷村帳』より⽇ケ⾕村と記されるようになります。江⼾時代の⽇ケ⾕村は、豊富な⼭林資源を擁し、村全体の共有財産として各集落の伐採が許可された「野⼭」と称された⼊会地や、各集落が組織した株により独占管理される「持林(もちばやし)」のほか、宮津藩の「御林(おはやし)」(直轄林)が設置されました。
明治時代には、岩ヶ⿐(養⽼地区)と筒川村、本庄村(伊根町)を結ぶ交通の要衝に位置したことから、明治⼆⼗五年(⼀⼋九⼆)には与謝郡の村で4番⽬の⼈⼝を誇りました。
また、⽜飼い(⽴)、養蚕(⼤⻄)、炭焼き(成⾕)といった⼭村の⽣業(なりわい)がみられ、丘陵には階段状の畑が展開しました。戦後、昭和⼆⼗九年(⼀九五四)に合併し宮津市となり、現在に⾄ります。