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第125回 宮津市の誕生

印刷用ページを表示する 記事ID:0015889 更新日:2022年9月20日更新
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宮津市庁舎

           現在の宮津市庁舎

宮津市の誕生

 昭和二四年(一九四九)の第一次シャープ勧告により、全国で町村合併の気運が高まる中、宮津町、栗田村、上宮津村、府中村、岩滝村、吉津村によって合併に関する町会協議会が開催されました。具体的な進展はありませんでしたが、上宮津村は大正一二年(一九二三)以来、病舎や中学校を宮津町と組合立で運営しており、合併に前向きでした。昭和二六年三月、合併案が宮津町議会、上宮津村議会で議決され、四月一日、宮津町と上宮津村が合併しました。
 さらに、昭和二八年九月、町村規模の適正化を目的として、町村合併促進法が公布されました。これを受けて、昭和二九年六月、宮津町、栗田村、吉津村、府中村、日置村、世屋村、養老村、日ヶ谷村の一町七村が合併して宮津市が誕生。また、宮津市との合併か、舞鶴市との合併かで揺れていた由良村も、昭和三一年九月に宮津市と合併し、現在の市域となりました。昭和三一年の人口は約三万六〇〇〇人、戸数は約七〇〇〇戸でした。
 市庁舎は宮津町役場を引き継ぎましたが、昭和三七年六月、柳縄手に現在の庁舎が落成しました。
 設計者は峰山出身の沖種郎(おきたねお)。東京大学建築学科を卒業し、大学院では丹下健三(たんげけんぞう)に師事、のちに芝浦工業大学教授や学長を歴任しました。大手川に開くような中庭は、戦後民主主義の象徴として設けられ、議会場から大江山や天橋立を眺望することができます。京都府北部を代表する近代モダニズム建築として評価されています。

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