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第123回 戦時下の宮津町

印刷用ページを表示する 記事ID:0015461 更新日:2022年7月20日更新
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自彊館

          自彊館(じじょうかん)

   「日本一健康優良児」を記念して昭和9年に建てられた

戦時下の宮津町

 昭和一二年(一九三七)における日中戦争の開戦は、宮津市域にも大きな影響を与えました。昭和一五年には国民動員組織として町内会が設置され、この頃から、配給制が開始されました。食料不足を補うため、島崎公園は「家庭菜園」として開墾され、宮津警察署員によって薩摩芋や馬鈴薯などが栽培されたと伝えられます。
 学校では健康増進のため体育行事の比重が高まり、宮津校では昭和八年に児童が「日本一健康優良児」に選ばれました。昭和一三年の夏以降、児童の労働奉仕が行われ、昭和一九年には宮津校の運動場が「学校農園」として開墾されました。さらに、昭和二〇年には集団疎開の受け入れが行われました。
 こうした中、昭和二〇年七月三〇日午前四時五分、宮津に空襲警報が発令。舞鶴の海軍鎮守府への空襲が、伊根や宮津にもおよびました。この日、宮津湾には駆逐艦(くちくかん)「雪風」、「初霜」が停泊しており、空襲によって大破。また、桜山にも爆弾が投下され、防空壕の落盤により子供が犠牲となりました。そのほか、宮津駅周辺や栗田の舞鶴海軍航空廠(こうくうしょう)、上宮津でも爆撃や機関銃の掃射があり、一五名の一般市民が亡くなりました。
 宮津市遺族会が編集した『宮津市戦没者名簿』(昭和六〇年)によると、日中戦争およびアジア・太平洋戦争における宮津市域の戦没者は、一三四二名におよび、その戦死地は太平洋諸島から東南アジア、中国、朝鮮半島、ソ連など広範囲にわたります。

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