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第122回 丹後震災と宮津町

印刷用ページを表示する 記事ID:0014076 更新日:2022年6月20日更新
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丹後震災と宮津町

宮津測候所(島崎)

丹後震災と宮津町

昭和二年(一九二七)三月七日午後六時二七分頃、郷村付近(京丹後市網野町)を震源として丹後地震が発生しました。マグニチュードは七・三、宮津や豊岡の測候所では震度六を記録しました。
夕食時であったことから火災が発生。また、五〇〇回をこえる余震のため、多くの人たちが家から避難し、寒さに耐えながら夜を過ごしたと伝えられます。最も被害が大きかったのは峰山町で、九七パーセントもの家屋が全壊しました。
宮津市域では被害は比較的軽微でしたが、家屋の損壊は全壊が八〇棟、半壊が四二三棟にのぼり、府中村では三名が亡くなりました。宮津町内ではカトリック宮津教会や聖アンデレ教会などが大きな被害を受けました。
当時の宮津町は、交通の要衝に位置したことから、多くの避難者で大混乱となりました。町は公会堂を開放し、震災地から避難してきた負傷者の収容施設を設置、その後、臨時の府立病院となりました。また、宮津警察署には、京都府震災救護宮津出張所が置かれ、教護物資や義捐金などが集められました。こうした物資は、ひっきりなしにトラック輸送されたため、宮津町の自動車は、一台も使えない状態であったと伝えられています(『日出新聞』)。
京都府震災救護宮津出張所は、同年六月に閉鎖され、峰山町に移設。その後の震災復興を担いました。丹後や宮津町の昭和は、震災と復興の混乱の中で幕をあけたのです。

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