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第120回 清輝楼と文人墨客

印刷用ページを表示する 記事ID:0013915 更新日:2022年4月20日更新
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清輝楼

清輝楼の外観

清輝楼と文人墨客

  旅館・清輝楼は、元禄年間(一六八八‐一七〇四)、本町で創業したと伝えられ、明治三四年(一九〇一)に現在地へと移転しました。その後、明治末期、大正初期、大正一三年と、三度にわたり増築がなされたほか、昭和四〇年代にも改修が行われ、現在の形となりました。木造三階建ての近代和風建築として貴重なもので、国の登録文化財となっています。
近代の宮津地区は、天橋立観光の拠点となったことから、多くの旅館が建てられました。なかでも清輝楼は、徳富蘇峰(とくとみそほう)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、野口雨情(のぐちうじょう)、菊池寛(きくちかん)、吉川英治(よしかわえいじ)といった作家、ジャーナリストや、吉田茂(よしだしげる)、下村海南(しもむらかいなん)といった政治家が宿泊したことで知られ、色紙など墨跡(ぼくせき)の一部が「小さなちいさな美術館」として展示されています。
例えば、河東碧梧桐は、正岡子規(まさおかしき)の遺志を継いで与謝蕪村(よさぶそん)の調査を行い、清輝楼を常宿として丹後に一〇回以上足を運びました。昭和三年、見性寺に建立された与謝蕪村の句碑も、河東碧梧桐が揮毫(きごう)したものです。また、昭和九年に投宿した政治家で歌人の下村海南は、当時、天橋立の濃松で開催されていた、第一七回天橋立夏季大学に講師として招かれ、「ナチスを中心として」という講演を行ったという記録が残されています。
清輝楼は、近代宮津の景観や、天橋立の往来を物語るとともに、天橋立や宮津を舞台とした文化人の交流を知る上でも重要です。

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