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第119回 一色稲荷の整備

印刷用ページを表示する 記事ID:0013897 更新日:2022年3月18日更新
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一色稲荷

現在の一色稲荷

一色稲荷の整備

 一色稲荷は大手橋の東側にあり、旧宮津城本丸の入り口付近に位置します。府中や弓ノ木を拠点として、中世に丹後国の守護職を務めた一色氏が祀られています。
 天正八年(一五八〇)、丹後入国を果たした細川藤孝は、娘の伊也を一色氏の最後の当主・五郎に嫁がせ、和睦を図ったとされています。しかし、本能寺の変の直後である天正一〇年九月、宮津城内の重臣屋敷(米田屋敷)で開かれた饗宴(きょうえん)の席に、一色五郎を呼び出して殺害。これによって一色氏は、滅亡に追い込まれました。
 細川家の歴史をまとめた『綿考(めんこう)輯録(しゅうろく)』によると、一色稲荷の場所は重臣屋敷(米田屋敷)の付近に位置しています。ただし、弘化二年(一八四五)の「宮津鶴賀城郭之図」をみると、この場所には番所や広場が描かれ、神社や祠はみられません。幕末期以降に、一色氏を鎮魂する目的で建設されたと考えられます。
 大正一三年(一九二四)三月二九日付の『橋立新聞』には、一色遺蹟保存会による一色稲荷の改修工事や、記念碑竣工についての記事がみられます。同年の鉄道開通に伴う宮津駅の設置や、甲子道の開通にあわせて、一色稲荷の整備が行われたようです。
 鉄道の開通により、天橋立観光が盛り上がりをみせる中、歴史的な旧蹟を顕彰して、観光資源として利用した動きとみることができます。

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