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第118回 鉄道開通

印刷用ページを表示する 記事ID:0012831 更新日:2022年2月18日更新
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駅舎

古写真にみる宮津駅

鉄道開通

 大正五年(一九一六)、木内重四郎が京都府知事に就任すると、丹後鉄道期成同盟会が結成され、舞鶴・峰山間の軽便鉄道設置が積極的に進められました。
 早くも大正七年には、丹後鉄道の敷設が決定され、大正一三年四月、長年の念願であった丹後鉄道の宮津‐舞鶴間が開通しました。宮津駅が開設され、舞鶴・宮津間の連絡船は廃止となりました。さらに翌年七月には宮津‐山田間が開通し、天橋立駅が開設されました。
 鉄道開通にあわせて、宮津町では宮津駅と大手橋を結ぶ「甲子道」が整備されました。その名称は、大正一三年が干支の一つ「甲子」の年であったことに由来し(甲子園球場も同年に完成)、商工会議所前には記念碑が建てられました。さらにこの年は、宮津祭が六〇年に一度の「甲子大祭」に当たっていたことから、鉄道開通の喜びとあいまって旧城下町の全町から芸屋台が繰り出し、大いに賑わったと伝えられます。
 また、昭和三年(一九二八)には白柏通りの拡張工事が行われました。二五〇間の区間において四間半に拡張され、黒田家住宅で曳家が行われたほか、昭和橋が架橋されました。この道路は天橋立への主要ルートとして利用され、同年には天橋立乗合自動車商会が設立。宮津駅から天橋立小天橋(回旋橋)間を結びました。
 昭和初期は日本全国で観光振興が進められ、庶民の旅行が定着した時期でした。鉄道の開通は、天橋立観光の発展を後押しするとともに、宮津町の経済復興を象徴する出来事となりました。
(宮津市教育委員会)

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