本文
【天橋立#10】昔の人は偉かった~!天橋立への旅路
日本三景のひとつ「天橋立」。奇跡の絶景として古代より人々の心を魅了し続けてきた“謎多き天橋立”の魅力を連載記事で紐解きます。
第10回のテーマは「天橋立への旅路」。今でこそ交通機関の発達で、京都市内から車や電車を使えば2時間ほどで天橋立へ行くことができますが、交通が発達していなかった時代、昔の人はどのようにして天橋立を訪れていたのでしょう?
今回は、京都府立丹後郷土資料館の協力のもと、昔の旅人が通ったルートを紐解いてみます。
あの歴史上の有名人物たちも訪れた天橋立
天橋立松林に佇む与謝蕪村の句碑。「はし立や松は月日のこぼれ種」と刻まれています
平安時代の歌人・和泉式部、室町時代の将軍・足利義満、同じく室町時代の水墨画家・雪舟、江戸時代の俳人・与謝蕪村、明治時代の歌人・与謝野晶子……さまざまな時代に渡って、皆さんご存知の歴史上の有名人が多数、天橋立を訪れています。
和歌の名人・和泉式部の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)が丹後に赴いた母を思い慕って詠んだ、百人一首にも収録されている名歌「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」や、雪舟が天橋立と府中の街並みを綿密に描いた水墨画『天橋立図』は国宝として、現代の私たちも歴史の教科書等で目にする機会が多くあります。
数々の歴史的偉人が訪れ、作品に残している天橋立。人々はなぜ天橋立に憧れ、どのようにして現地を訪れたのでしょうか……。
天橋立が“憧れの地”であり続ける理由とは?
天橋立について、京都府立丹後郷土資料館の学芸員である森島さんはこのように語ってくれました。
「写真や絵を見なくても、その場所の名前を聞いただけで頭にパッと景色が浮かぶ日本の自然景観といえば、『富士山』か『天橋立』ではないでしょうか? 鳥居や大きな建物などシンボルがあるわけじゃないのに、誰の目にも焼きついて離れない、唯一無二の絶景ですよね」
既に平安貴族の間では天橋立を和歌に詠んだり、衝立や屏風絵として描いたり、天橋立をモチーフにして庭園を造ったりしていたそうです。このことから天橋立が、“一度は訪れてみたい憧れの地”として認知されていたことが窺えます。
天橋立が憧れられ続けてきた理由について、森島さん曰く、
「“憧れ”というのは近すぎても特別感がありませんし、遠すぎると手が届かないと諦めてしまうもの。徒歩しか手段がない時代でも、天橋立は京都から3、4日で赴くことができました。その絶妙な距離感が“土産話に聞く天橋立”への憧れをより掻き立てたのかもしれませんね」
江戸時代の古文書から読み解く天橋立へのルート紹介
天橋立を眼下に望む景勝地の成相寺
情勢が安定した江戸時代には街道や宿場町が整備され、お伊勢参りをはじめとする寺社参詣が流行し、庶民も旅を楽しむようになります。当時は『観光』という言葉はまだなく、『物見遊山(ものみゆさん)』と表現されていました。
そんな中、天橋立は、江戸時代の売れっ子浮世絵師・歌川広重の手により、日本三景として描かれ一躍認知度が向上。西国巡礼第28番の札所である成相寺への参詣を第一目的に、天橋立もセットで旅の目的地とされるようになりました。
京都府立丹後郷土資料館が所蔵する、『己巳(きし)紀遊』、『丹後廻り(たんごまわり)道中記』、『御巡見(ごじゅんけん)案内帳』の3冊の古文書は、江戸時代の旅日記で当時の旅人がどこを通って旅をしていたのか、何を食べていたのか、どこに泊まっていたのか、何に興味を持って旅をしていたのか、などを教えてくれる貴重な資料です。
これらを読み解くと、実は、江戸時代には既に天橋立への行き方は何通りもあり、「定番」のルートはなかったことが発覚! 当時の旅人は、途中にお参りしたい寺社があればそこに行き、立ち寄りたい場所があればそちらを通るなど、巡るスポットの組み合わせによって、好きなルートを選んでいたようです。現在のバックパッカーに近い感覚だったのかもしれませんね。
これは目的地周辺でも同じで、『丹後廻り道中記』を読み解くと、天橋立エリアでは、犬堂(いぬのどう)、龍燈松、土産石(身投石)、庭鳥塚など、今はあまり知られていないスポットにも数多く立ち寄っていることがわかりました。
現代の感覚だと、目的地の近くまで電車やバスで移動して、周囲をさらりと観光するのが当たり前ですが、当時は徒歩オンリーで旅をしていたため、移動中のあらゆる観光スポットが目に留まりやすく、立ち寄りやすかったんでしょうね。
ちなみに、いくつもあるルートの中から、京都から天橋立への道のりをざっくりと分けると、以下の通りになるそうです。
●京都→福知山→由良川・田辺→宮津
●京都→福知山→由良川→大江→内宮→宮津
●京都→福知山→与謝峠→宮津
●京都から若狭を経由する逆回りパターン など
丹波・丹後・若狭紀行 行程図
数ある京都〜天橋立ルートから、今回は一つピックアップしました。上の図は、江戸時代の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)が記した紀行文『己巳紀遊』の旅程を、森島さんが読み解いたものです。実際に益軒が京都から宮津まで歩いたルートが分かります。
京都⇒南丹⇒福知山⇒宮津、約150kmをわずか3泊4日で制覇しています!
「昔の人たちは、現代人よりも徒歩へのハードルは低かったとはいえ、この時の益軒は齢60歳くらい。健脚すぎますよね……。京都へ帰った後、吉野まで桜を見に行っていますし。今の人間には不可能です(笑)」と森島さん。
写真は成相寺本坂道(ほんさかみち)の道中にある益軒観展望所からの景観です。貝原益軒が成相寺へ向かう際、こちらの景色を見て感激したことが記されています。
「此坂中より、天橋立、切戸の文殊、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海、目下に在て其景言語を絶す、日本の三景の一とするも宜也、」
これが、天橋立が日本三景の一つと書かれた最古の史料(文献上での「日本三景」の初出)だそうです。
江戸時代の旅人の多くが成相寺に参詣する際にここからの景観を楽しみ、同じ景観を現代の人も見ることが出来る……歴史ロマンを感じさせる風景です。
移動手段の変遷を辿る
京都府立丹後郷土資料館所蔵、戦前にお土産として販売されていた絵はがき。昭和2年のケーブルカー開通前、成相寺へは籠に乗って参詣していた江戸時代から一般人も物見遊山の旅で天橋立へ訪れるようになりましたが、本当にたくさんの観光客が訪れるようになったのは幹線鉄道が相次いで開通した明治20年代から。
当時の最速で到達できたルートは、始発で蒸気機関車に乗り、いったん敦賀(福井県)まで行って船に乗って宮津へ入るルートです。途中の宿泊なしで行けるようになりました。
また明治22年、待望の陸路である「京都・宮津間車道」が開通。それに伴い明治24年に開業した京都・宮津間の乗合馬車に乗ると、途中園部で一泊はするものの、宮津まで陸路のみで行けるようになりました。明治26年にはついに直通馬車ができて、所要時間は15時間まで短縮されます。
その後、鉄道が福知山まで開通すると、福知山経由で河守に出て由良まで船で下り、宮津まで再び陸路で移動するという、船路と陸路を組み合わせたルートが主流となります。
そして、大正13年の国鉄宮津駅の開業により、京都から陸路のみの直通で約4時間半とさらにスムーズに宮津まで行けるようになり、これを機に観光ルートも大きく変わります。
現在は、京都縦貫自動車道が全線開通し、京都市にある沓掛IC → 宮津天橋立ICまで約1時間で行けるようになった天橋立。より身近で便利な観光地になりましたが、目的地と目的地を点でたどるのではなく、昔の旅人のように徒歩でゆっくり観光すれば、よりディープな発見があるのかもしれません。
<制作協力>
京都府立丹後郷土資料館