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第117回 鉄道開設への道
絵葉書にみる荒木別荘からの眺望
鉄道開設への道
特別輸出港(国際貿易港)の指定とならんで、明治時代には京都と宮津を結ぶ鉄道の誘致運動が行われました。
明治二六年(一八九三)、京都鉄道株式会社の設立申請が行われ、翌年には京都―綾部―舞鶴間、舞鶴―宮津間の鉄道敷設が許可されました。明治三二年には京都―園部間が開通しましたが、日清戦争による不況のため園部以北の計画は中止。宮津への鉄道開通は白紙となりました。
その後、明治三四年の舞鶴鎮守府の開庁にあわせて、舞鶴への陸路の確保が急務となり、明治三三年には阪鶴鉄道(大阪―福知山間)、明治三七年には官設鉄道舞鶴線(福知山―舞鶴間)が開業しました。これにより、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道が全通しましたが、宮津への延伸計画は進まず、その実現は大正時代まで持ち越されました。
こうした中、阪鶴鉄道(大阪―福知山間)や官設鉄道舞鶴線(福知山―舞鶴間)の開通にともなって、福知山―由良間、舞鶴―宮津間で連絡船が就航しました。鉄道と連絡船を乗り継ぐことで、京阪神と宮津の往来は大幅に短縮し、天橋立への観光を支えました。
特に、連絡船が発着した宮津地区は天橋立観光の拠点となり、荒木別荘、清輝楼、山嘉楼などの旅館が整備されました。中村樂天『丹後宮津』には、荒木別荘について「宮津第一の旅館と聞きつる荒木の別荘、中二階の御殿風の建築すてに山陰道には比類なきに」とあり、往時の姿が偲ばれます。
(宮津市教育委員会)