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第115回 島崎公園の整備

印刷用ページを表示する 記事ID:0012307 更新日:2021年11月19日更新
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島崎公園

古写真にみる島崎公園

島崎公園の整備

  明治時代における天橋立公園の設置と観光客の増加は、公園、遊園の重要性を強く印象付け、宮津町でも公園の整備が推進されました。特に、大正六年(一九一七)、時務調査委員会は「宮津町政ニ関スル意見書」において島崎公園の造営を提言し、翌七年四月、約五〇〇〇坪の宮津町有地に島崎公園が設置されました。当時は阪鶴線汽船場にも近く、良好な立地で賑わいました。
 島崎公園の場所は、江戸時代に宮津藩の「米蔵」や「舟番所」、「御舟蔵」などが置かれ、物資の集積や積み出しを行う港の機能をもちました。また、安政三年(一八五六)には台場が築造され公的な性格が強いエリアでした。
 公園設置後は、体育および休養娯楽を目的として運動場や海水浴場、音楽堂などが整備されました。また、西堀川通りにあった尽道校も、島崎公園に移築され与謝郡物品陳列場として利用されたようです。昭和二七年には、終戦とともに生産を停止した日本冶金工業株式会社が事業を再開しましたが、同年、ニッケル鉱石の運搬船として那岐山丸が入港し、島崎公園において入港記念パレードが行われました。運動場や海水浴場などで親しまれた島崎公園は、戦後復興を象徴する舞台でもあったのです。
 なお、戦後には昭和四一年には島崎児童館、翌四二年には宮津会館や中央公民館、昭和四六年には宮津市立図書館、昭和五八年には前尾記念文庫、平成一二年にはみやづ歴史の館が設置され、文化施設が集中する地区として、新たな展開をみせました。
(宮津市教育委員会)

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