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第112回 学校の歴史(4) 女子教育の展開
与謝郡立高等女学校(日和山)
学校の歴史(4)
女子教育の展開
宮津では明治一〇年(一八七七)から一一年頃、尽道校、万年、東新濱に女紅場が創立され、裁縫や生花、茶の湯などが教えられていました。ただし、女子の義務教育後の進路は、男子に比べて限られており、女子中等教育の確立が急がれていました。
こうした中、明治三八年、宮津町有志と宮津婦人会によって宮津女子裁縫講習所が設立され、翌年には与謝郡立高等女学校に改組。校舎は尽道校が利用されました。明治四四年からは日和山の造成地で新校舎の建設が開始され、大正二年(一九一三)、日和山に完全移転した。この場所は、現在、宮津中学校に受け継がれています。
本科と技芸専修科が置かれ、家事科では保育実習が行われていました。しかし、重い学費負担や実業教育施設の不備から、大正二年には本科以外は廃止となり、実科をもつ高等女学校として、ようやく昭和一四年(一九三九)に宮津町立大手川実科高等女学校が設立されました。
また、明治四〇年には、ルイ・ルラーブによって宮津裁縫伝習所が開設されました。校舎はカトリック宮津教会内に設置され、中郡、竹野郡、熊野郡や但馬からも生徒を集めました。昭和二三年には暁星高等学校へと発展し、昭和三六年には暁星女子高等学校となりました。さらに、平成一五年(二〇〇三)の共学化にともなって京都暁星高等学校と改称。獅子崎の関西電力火力発電所の跡地に校舎を移しました。
(宮津市教育委員会)