自じ由ゆう民みん権けん運うん動どうと天てん橋きょう義ぎ塾じゅく 宮みや津づ小学校の校庭に「天橋義塾の跡あと」という石ひがあります。ここは、廃はい藩はん置ち県けんをはじめとする明めい治じ維い新しんの大きな改かい革かくで仕事を失うしなった武ぶ士しの子どもたちが学んだ天橋義塾のあった場所です。 天橋義塾については、資し料りょうによると、次のように記き録ろくされています。 「明治の世をむかえて、小学校教員の養よう成せいと新しい政せい治じを求もとめる自由民権の願ねがいにこたえる場所として、一時は100名をこえる武士の子どもたちが学んだが、全国の自由民権運動が政せい府ふに取りしまられるようになり、小こ室むろ信しん介すけや沢さわ辺べ正せい修しゅうなど開校につくした人があいついでなくなったこともあって10年後、天橋義塾はへいさに追いこまれた。」 小室信介や沢辺正修の生まれた家は、宮津市内の柳やなぎ縄なわ手てにありました。宮津小学校の児じ童どうが通つう学がく路ろに利り用ようしている大おお手て川にかかる中なか橋ばしの近くです。72天橋義塾の跡廃藩置県 1871(明治4)年、明治政府は江え戸ど時代に置おかれた藩を廃はい止しして県を置いた。明治維新 それまでの武士による幕ばく府ふ政治を改あらため、新しく始まった政治の改革をいう。「廃藩置県」や「殖しょく産さん興こう業ぎょう」(産さん業ぎょうをさかんにして国の力を高める)などをいう。自由民権運動 明治時代になって、新政府による政治をひはんした運動で、国会開かい設せつのきっかけともなった。
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