蘭らん方ぽう医い 新しん宮ぐう凉りょう庭てい 凉庭は江え戸ど時代後半の1787(天てん明めい7)年、丹たん後ごの国くに由ゆ良ら(今の宮みや津づ市由良)のまずしい家に生まれましたが、おさないころから地元由良の松しょう原げん寺じで読ど経きょうや書など一生けん命に勉学にはげみました。 1810(文ぶん化か7)年、23才のときに凉庭は蘭らん学がくを学ぶため長なが崎さきへ行き、オランダの進んだ医学を熱ねっ心しんに学びました。 その後、長崎での修しゅ業ぎょうを終えてふるさとに帰った凉庭は、京きょう都との室むろ町まちで蘭方医として開業し、深夜の急な病人も、こころよくしん察さつし、多くの人にしたわれたといわれています。 1839(天てん保ぽう10)年、凉庭は京都東ひがし山やまの南なん禅ぜん寺じ近くに医学伝でん習しゅう所じょの順じゅん正せい書院を建たてました。順正書院では医学の教育を行うほか、家がまずしくとも学ぶ意よくのある者やいっぱんの民みんしゅうにも無む料りょうで講こう義ぎをし、医学の人じん材ざい育いく成せいにつとめました。ここで学んだ医学生たちが後の京都府ふ立りつ医科大学のきそをきずきました。ち山えど戸70書物を読む凉庭のどうぞう新宮凉庭の年表年れいできごと知の医師)のしながら漢方医おじ(福公家に奉学を学ぶ。11才医学を学ぶため江く。16才由良にもどり、漢方医を開業する。18才23才長崎で蘭学を学ぶ。32才京都で蘭方医を開業する。52才順正書院を建て、医学教育などを行う。ふくやまこうほうに行
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