1月24日、みやづ歴史の館文化ホールで歴史文化シンポジウム「与謝蕪村と宮津」が開催されました。
与謝蕪村の宮津滞在時代をテーマにした今回のシンポジウムは、宮津市街地の観光振興に取り組む「宮津まちなか観光推進協議会(会長:宮ア劭さん)」が、地域の歴史文化資源を掘り起こし、観光振興につなげていこうと企画されたもの。
市民の皆さんなど、約270人の参加者が、講演会やパネルディスカッションを通じ、蕪村と宮津とのゆかりについて理解を深めました。
 |
|
|
|
|
|
| 与謝蕪村ってどんな人 |
1716生−1783没(享年68歳)
松尾芭蕉と並び称される江戸時代の俳諧師で、写実的、絵画的な句が特徴。また、画家としても、国宝や重要文化財に指定される作品を多数残しています。まさに江戸時代のマルチアーティスト(総合芸術家)といえる存在で、俳句と絵画を融合させた俳画の世界を確立しました。
現在の大阪市都島区毛馬町で生まれ、江戸で俳諧の世界に入り、その後京都を中心に活動しながら、全国各地を旅します。宮津にも3年余り滞在しており、丹後・宮津から京都に帰った後に「与謝」を名乗っています。
【代表的な句】
夏河を 越すうれしさよ 手に草履
春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな
菜の花や 月は東に 日は西に |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|

講師 伊藤 太 氏(京都府立山城郷土資料館 主任)
蕪村の人物像を中心に講演いただきました。
蕪村は、多才な人物で、俳人、画人として教科書にも載るほどの人物ですが、早くに師を亡くしたこともあり、大器晩成の人です。画人としての力量を広く知らしめたのが53歳の時、俳人としては55歳で師の跡を継ぎ夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠(指導者)となってはじめて自立できたと言えます。
夜半亭を襲名した際、友人がお祝いとして次の句を送っています。当時の感覚でも遅咲きであったことが分ります。
遅桜 人に待たれて 咲きにけり
丹後・宮津には、39歳から42歳にかけて3年あまり滞在。小川町の見性寺に寄宿しながら、同寺の竹渓(ちっけい)、真照寺の鷺十、無縁寺の両巴など寺町の僧侶や宮津の文化人達と交流し、俳諧や画業の研鑽に努めました。また、宮津から友人に宛てた手紙からは、当時の宮津には俳諧の流れがあり、漢詩文化も盛んであったことなどがうかがえます。宮津から京都に帰って、一流の芸術家として大成するわけですが、宮津滞在がその背景にあったと考えられます。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
講師 佐々木 丞平 氏(京都国立博物館 館長)

講師 佐々木 正子 氏(京都嵯峨芸術大学 教授)
画人としての側面を中心にクイズを交えながら、作品の魅力、鑑賞のポイントを紹介いただきました。
蕪村は、絵の分野では師を持たず、国内や中国の絵画を模写することで学び、独学でその画技を高めていきます。
また、俳諧師でもある蕪村の絵は、文人画と評されます。文人とは、広い視野と豊かな知識を有した知識人のこと。つまり文人画は、知の絵画と言うべきもので、哲学的・文学的背景を有した高い精神性が求められ、職業画と区分されます。蕪村自身、文人的な生き方を目指し、一つの分野だけでなく、たくさんの分野に身を置き、広い知識、深い理解を身につけることで、より大きな表現を求めました。また、俳句と画を融合させた俳画の世界を確立し、我が国の絵画表現の幅を広げました。
蕪村の作品は、句、絵ともに人々の情感を誘うロマンがあるところが魅力。語りかけてくれる絵に感情移入し、絵と一体となって感じ、味わってほしいです。
そして、宮津でも多くの作品を残しています。この地の情景のすばらしさ、人々の温かさに心引かれて、画人蕪村の基礎・核を築いたと言えます。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
講演いただいた先生方に加え、地元から梅田慈弘氏(見性寺住職)、花谷道恵氏(丹後俳諧史研究者)、茶谷昌史氏(宮津観光ピント会会長)が参加。
蕪村を観光振興、地域活性化に生かす視点では、「ただ蕪村が滞在したまちということだけでなく、なぜ宮津に惹かれ、刺激を受け、愛したのかを掘り下げることが大切。このことが、住民の誇りとなり、地域活性化や元気づくりにつながるのではないか」など、活発な意見が交わされました。

市民の皆さんなど約270人が参加。熱心に耳を傾けました |
|
|
|
|
|