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第103回 今林家と糸問屋

印刷用ページを表示する 記事ID:0005164 更新日:2021年1月29日更新
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今林家

今林家と糸問屋

 江戸時代の丹後縮緬は、京都の問屋によって「丹後絹物」として全国に流通しました。

 

 京都には「丹後絹物」を一手に引き受ける「丹後織物京問屋仲間」があり、「国方」と呼ばれる宮津藩の生産者や荷主に対して強い支配力をもちました。「国方」が自由に価格や取引先を決めることができなかったため、京都の問屋に対して申し立ても行われました。また、丹後縮緬の原料となる生糸も、京都西陣の生糸商から購入され、奥羽産が用いられました。

 

 こうした中、宮津城下町では京都西陣を介さずに、独自に全国から生糸を買い集める商人が登場し、丹後縮緬に対する京都の統制に一石を投じました。その一人が今林仲蔵です。今林家の五代・仲蔵は、安永六年(一七七七)生まれ。一五歳から岩滝(与謝野町)の山家屋で奉公し、文化一三年(一八一六)、四一歳で独立して糸問屋を開業しました。

 

 糸問屋のほか、縮緬生産や廻船業などを手掛け、大正三年(一九一四)の廃業後も、八代仲蔵が日韓貿易会社の設立に関わったほか、九代仲蔵が宮津町助役や宮津銀行の頭取を務めるなど、近代宮津において重要な役割を果たしました。また、大林組の設計部長として旧大阪市庁舎、中之島公会堂(大阪市)、旧加悦町役場(与謝野町)などの設計に関わった今林彦太郎も親族に当たります。

 

 現在も万町には明治二二年に建てられた主屋や、生糸店を営んだ旧店舗の建物があり、国の登録有形文化財に登録されています。

 

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