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第86回 宮津の自由民権運動

印刷用ページを表示する 記事ID:0005143 更新日:2021年1月29日更新
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天橋義塾石碑

宮津の自由民権運動

 青少年の教育機関として誕生した天橋義塾は、京都府の自由民権運動をリードする存在としても全国に知られました。

 

 その中心人物は、沢辺正修です。天橋義塾の設立に関わった小笠原長道(小室信介)と同様に、宮津藩士の家に生まれ、明治十一年(一八七八)、二二歳の若さで天橋義塾の社長となりました。

 

 自由民権運動とは、板垣退助を中心に薩長閥(明治維新の中心となった薩摩・長州出身者の派閥)の政府に対して、憲法の制定や議会の開設を要求した運動です。明治一三年に国会期成同盟という全国組織が結成され、盛り上がりをみせますが、同年、沢辺は京都府を代表して国会期成同盟の第二回大会に出席し、幹事(五名のうちの一人)に選出されています。

 

 また、この前後には、沢辺を中心に「大日本国憲法草案」が作られました。全国的にみても早い時期に作成されたもので、天橋義塾の高い教育レベルを全国に示しました。

 

 その後も、沢辺は立憲政党の結党や『日本立憲政党新聞』の発行にたずさわり、自由民権運動に邁進します。しかし、政府の締め付けが強まる中、明治一六年に立憲政党は解党。沢辺正修も、明治一九年に三〇歳の若さで逝去しました。

 

 時世の句からは、道半ばでの死に対する悔しさがにじみますが、三年後の明治二二年には大日本帝国憲法が公布。さらにその翌年には、第一回帝国議会が開かれ、日本の近代化は新たな局面を迎えました。

 

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