宮津の地は、これまでの遺跡・古墳の発掘調査などから、縄文・弥生・古墳時代と続く永い歴史が明らかにされていますが、地名としては、平城宮出土木簡に「宮津郷烏賊二斤」とあるのが見られ、ついで「和名抄」には宮津郷とあります。
奈良時代の和銅6年(713)丹波国から別れて丹後国が置かれましたが、そのころ国ごとに建てられた国分寺は府中にあり、国府もこの地にあったとされ、政治・文化の中心でした。
中世においても、宮津は国衙(こくが)の地として政治・宗教・文化の中心地であり、室町〜戦国期には守護所の所在地でもあリました。
14世紀末から一色氏が守護などとして勢力を持っていましたが、16世紀末細川藤孝・忠興父子が織田信長の命を受け、明智光秀とともに丹後を平定、天正8年(1580)8月、丹後を与えられ入国して宮津八幡山城へ入り、まもなく平地に城を築き、城下町を開いたとされています。
江戸時代に入り、細川氏に代わって京極高知が12万3千石で丹後入リし、元和8年(1622)になると、その子高広が7万8千石で宮津に封じられ、町の本格的な建設を始めました。
京極氏のあと、永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏と藩主が代わり、最後は宝暦9年(1759)より本庄(荘)氏が幕末まで続きました。この間、近世における丹後地方の政治・経済・文化の中心的都市として発展しつづけてきました。
宮津は天然の良港で、北は酒田、松前、西南は九州、四国、大阪に至る船が入港、港町としても栄えました。
明治維新廃藩後の宮津は、宮津県や豊岡県管下に属し、明治9年(1876)には京都府に編入され、宮津支所が置かれました。
明治22年(1889)町村制の施行とともに宮津町ほか10村が誕生、大正13年(1924)には鉄道が開通したほか、宮津港も沿岸を主とした航路の要としての役割を果たしてきました。
昭和26年4月に上宮津村、同29年6月には栗田、吉津、府中、日置、世屋、養老、日ヶ谷の各村と合併して宮津市が誕生、さらに同31年9月には加佐郡由良村を合わせて今日に至っています。