![]() 写真提供:智恩寺 |
紙本著色達磨図 雲谷等益筆 半身像の達磨を描いたもので、絵の作者は雲谷等益、図上の賛者は文英清韓である。 等益(1591〜1644)は、雲谷派を開いた雲谷等顔(1547〜1618)の次男に生まれ、早逝した長兄の等屋に代わって雲谷庵を継承し、毛利家に仕えたことが知られる。幼名を宮法師、名を元直といい、別号を友雲とした。「雪舟−周徳−等顔−等益」という系統を意識して自らを「雪舟四代」と称し、藩の内外で精力的に画作をこなした。惜しくも作品は失われているが、父等顔の時代から関係の深かった大徳寺での障壁画制作が特筆されるほか、従来名島城の襖絵とされ、等顔筆の伝承があった「梅に鴉図」(現在は京都国立博物館所蔵)が黒田家の居城福岡城の本丸にあり、等益その人の手になることが明らかにされるに至っている。 一方、清韓は、東福寺の227世で、号は文英、韓長者と尊称された。慶長5年東福寺に住し、同9年には南禅寺に移った。豊臣家と深く交わり、加藤清正の哀悼の序を書き、19年には片桐且元の依嘱で大仏の鐘銘を撰した。これに「国家安康」の四文字があり、大坂の陣の引金となったことは有名である。そのため豊臣家滅亡の後捕らえられるが、蟄居のうちにも林羅山と詩文の友となり、許された後元和7年(1621)に没した。 本図の制作年代は、清韓の没年以前となり、等益20代の作例と考えられる。「雲谷」の白文円印、「等益」の朱文方印が押される。 | |||||||||||||||
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